第1回 弟子訓練10年

 2001年最後の礼拝メッセージは、「弟子訓練をありがとう!」で締めくくりました。1992年5月にサラン教会における弟子訓練セミナーに出席して以来、私は弟子訓練に召されていると確信し、ひたすら弟子訓練に取り組み続けてきました。すぐに実を結ぶことはありませんでした。つらい経験と悲しみがたくさんありました。嘆きと葛藤も多くありました。何よりも牧師自身の未成熟さと牧会技術のなさに打ちのめされもしました。 

しかし、それにもまして、いただいた教訓、神のみ業、奇跡、信徒の変化、福音の恵みの受容、目が開かれたこと、教会にかもしだされる雰囲気、弟子群の姿、小牧者の誕生と協力牧会の喜び、そして、これらの確信とこれまでの弟子訓練をベースとしたこれからの教会形成への限りなき希望を考えると「神様、弟子訓練をありがとう!」が最もピッタリくる言葉です。 1991年に弟子訓練という言葉を私が聞いたときには、それほど弟子訓練は日本に浸透していませんでした。小牧者訓練会の卞宣教師が小牧者訓練会を開設して、日本の牧師たちが全国から集まり、時間と金銭的な犠牲を払い、東京で開かれる卞宣教師が導く弟子訓練に参加するようになりました。並行して全国小牧者コンベンションも開かれ、年を追うごとに参加者が多くなり、一大ムーブメントのような形になりました。

 しかし、残念ながら弟子訓練が正しく理解され、教会に定着するにはまだまだ至っていません。ある牧師たちは,弟子訓練を一部の能力のある人のためのエリート養成と捉え、またある牧師たちは韓国式スパルタ教育と捉え、ある牧師たちは聖霊の賜物を強調する一種のカリスマ運動と捉えたり、神と信徒の間に牧会者が侵入する人為的信仰操作以外の何ものでもないと捉えます。また、実際に弟子訓練にもう一歩踏み込み、実践してみた先生方の中からも「変化が起きなかった」「単なる勉強会に終わってしまった」「かえって教会の中に混乱が生じてしまった」という挫折感や失望感の声を聞くことがしばしばです。さらに、弟子訓練を静観していた人たちは、そのような弟子訓練の動向を見て、セルチャーチムーブメントやアルゼンチンやインドネシア、そしてペンサコーラなどで起こっているリバイバルを見聞きして、他の道を探求し始めている牧師もいます。
 しかし、弟子訓練はマタイの福音書28:19,20でイエス様が遺言として残された命令であり、牧師の召命はエペソ人への手紙4:12にあるように、聖徒を整えて奉仕の働きをさせることにあります。ですから、多かれ少なかれ、全ての牧師は何らかのかたちで弟子訓練に携わっているのです。にもかかわらず、弟子訓練による教会形成モデルが日本に殆ど見られないのはどうしてでしょうか?大きな力あると言われてきた教会も、次第に色あせ,さらに力強く前進しないのはどうしてでしょうか?また日本の多くの教会が後継者問題で揺れているのはどうしてでしょうか?これらの問題と弟子訓練の探求不足は関係ないのでしょうか。私に与えられた弟子訓練の確信とこの10年間の経験を分かち合う機会をリバイバル新聞が与えてくださいました。この紙面を通して、日本の牧師先生方や信徒リーダーの方々と共に、日本における教会形成をもう一度検討してみたいと思うのです。この記事を通して多くのヒントが与えられ、「神様ありがとう!」という声をたくさん聞きたいと願っています。

 




第2回 「弟子訓練」ということば

 「弟子訓練」ということばは、多くの人にあまりいい印象を与えないようです。多くの先生方にもっといい呼び名はないかと問われ、私自身も検討してみましたが、今のところ他の呼び名が見つかりません。しかし、このことばが好まれない理由を検討することはもっと重要なことだと思います。最近は「健康な教会」ということばがブームになり,バランスをとる教会形成論が叫ばれています。私が神学生の時代は,ピーター・ワグナーを中心とした教会成長論が大きな影響を与えていました。
日本でも成長している教会が紹介され、福音派の台頭が叫ばれていたのです。その後、数的強調から賜物が強調されるようになり、当然のように御霊の働き論へと発展し、日本の福音派はこの御霊の働きをめぐってやや混乱した様相を呈しています。ある面の強調は、他の面を否定するものではありませんが、あまりにその面ばかりが強調されると、他の面を大切にする人たちはアイデンティテイークライシスに遭遇するのです。「健康な教会」はこのような面からするととても受け入れやすいことばで、否定感を与えないことばと言えるでしょう。

 さて、「弟子訓練」ということばもある意味では新しい響きを持っていることばかも知れません。何らかのムーブメントを意識させ、それをしていない人たちを否定するものであるかのように受取られやすいのです。しかし「弟子訓練」は、祈りや賛美の向上のための集会やプログラム、教会や神学校などにおける聖書を教える働き、リバイバルのための聖会や伝道の働き、御霊の働きに敏感に応答すること、家庭における夫婦関係の形成や子供への躾のあり方の指導、カウンセリングをも包括するという意味で、他の用語とは区別されなければなりません。
弟子訓練とは、賛美にあふれる教会を造ることであり、祈りの教会を造ることであり、伝道の教会を造ることであり、愛の教会を造ることであり、御霊の賜物があふれる教会を造ることであり、バランスの取れた健康な教会を造ることなのです。イエス様が「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる人々を弟子としなさい。」(マタイ28:19)言ったとき、一面だけが整えられた人を造るようにと命じられたのではありません。「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」(28:20)と弟子たちに語られたのです。ですから、あらゆる領域において、イエス様の命令を守るような弟子を造る訓練、あるいは牧会のあり方、プログラムを他に何と表現したらいいでしょうか。問題は、「弟子訓練」ということばそのものよりも、「弟子訓練」ということばの理解、あるいは用い方・捉え方にあるのです。


私は、「いやしーず」というカウンセリンググループをケアしつづけてきました。摂食障害、うつ病、不眠症、神経症、人格障害、対人恐怖症などの問題を抱え、救いに導かれてきた人たちがメンバーです。時間がかかったものの、彼らの症状は大分緩和され、彼らは口々に、自分たちの幸いを語ります。私が驚いたのは、視察に来られたある先生から、いやしーずというグループは何をするグループかと尋ねられたときです。彼らは躊躇なく「弟子訓練です。」と答えたのです。私の方では弟子訓練をしているつもりはありませんでした。しかし、彼らは弟子訓練としか言い様がないと言います。死ぬことしか考えられなかったという彼、途中で死にかけた彼、質問しても何も答えられなかった彼女たちの口から「弟子訓練のおかげ」という言葉を私は確かに聞きました。
 




第3回 弟子訓練教会の雰囲気

 教会成長において、祈りや賜物を生かすこと、分かりやすく力強いメッセージ、聖書勉強、リーダシップ論など様々なテーマが取り上げられてきましたが、最近は雰囲気の重要性が叫ばれるようになってきました。確かに伝統的に教会は硬い、まじめ、暗い、静かであるというイメージが定着しています。笑うことが少なく、遊ぶとか楽しみは教会とは別の世界のように受け取られているのです。
 しかし、本来福音によって罪赦され、解放されて行くはずの教会、人間関係がキリストのよって回復し、愛することや仕えることが身につけられていくはずの教会は、明るさと開放感にあふれ、そこには豊かな人間関係を見出すことができ、屈託のない交わりとどんな人が見ていても安心できる交わりが確立してくるはずなのです。しかし現実の教会はそれを実現することがなかなか出来ていません。どうすれば、そのような教会を造ることが出来るのか、なかなか糸口を見出すことが出来ないのでいるのです。それどころか、教会の人間関係で躓く人が多く、教会を去る人、他の教会に転会する人も多く見受けられます。教会全体を診断すると疲れており、病んでおり、力のない状態になりつつあります。牧会者の間にも、このような疲労感、倦怠感、抑鬱感、燃え尽き感が少なからず見え隠れしています。子どもたちは教会を去って行き、教会は高齢者の集まり化してきます。躍動感が薄れ、ますます将来に危機感を抱いている教会が多いのではないでしょうか。

 このような日本の教会の中にあって、弟子訓練の確信を失わずに取り組んでいる教会は元気で、健康です。仙台ラブリ聖書教会と一緒に弟子訓練に取り組んだ近辺の教会が他に2つありますが、いずれも力があり、成長し続け、明るく元気です。 
 先日小牧者コンベンションで、古川聖書バプテスト教会(筆者の母教会)の飯塚先生が証をしてくださいました。弟子訓練によって水曜日の祈祷会や早天祈祷会に集まる人がとても多くなり、中高生が増やされ、元気に子ども伝道に励み、牧師家庭が変えられ、教会全体の雰囲気が笑いと活気にあふれるようになったということで、とても励まされました。

ラブリ教会においても同じ現象が起こっています。決して軍隊の集まりではありません。本当に子どもから老人に至るまであらゆる年代層が、明るく、奇想天外に遊び、楽しみ、笑っています。私は牧師ながら、特に子供たちをいつもうらやましいと思って見つめています。私の子供時代にこんな素晴らしい環境はなかったからです。彼らは自由に教会生活を楽しんでいます。しかし、子どもたちは礼拝中とても静かに大人と一緒に礼拝をささげています。大人たちもふざけるときには信じられないことをして楽しんでいますが、彼らが最も楽しみにしているのは、御言葉の学びです。
今、11名の若者たちが次の弟子訓練を早く受けたいと牧師を急かしながら待っています。彼らは早く受講したいと言っています。どうしてそんなに弟子訓練を受けたいのでしょうか。彼らは口々に言います。「整えられて、神様に用いられたいからです。」「伝道したいのです。」「変えられたいです。愛せる人になりたいです。」「今の小牧者のようになりたいです。」 ラブリでは、弟子訓練によって造り変えられ、癒され、問題が解決し、自由にされ、伝道出来るようになり、クリスチャン生活がよりすばらしいものになるという意識が定着しているのです。
 

 


 

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