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リーダーシップは大切な牧会者の資質です。実際、日本において成長している教会はみな、リーダーシップやカリスマ性の強い牧会者の牧している教会です。
しかし、私は自分のリーダーシップを開発することやカリスマ性を強めることで教会形成をしようとは思っていないのです。むしろ、同じように神に召された皆さんひとり一人のうちに隠されている大きな力と可能性に目を開き、開発したいのです。それは牧師対信徒という図式ではなく、牧師と信徒による協同の教会形成です。 そのために、信徒ひとり一人を御言葉によって養育し、訓練によって整え、奉仕の働きへと導いているのです。すなわち、弟子訓練による教会形成です(マタイ28:19−20、エペソ4:12)。この働きのためには、従来考えられてきたリーダーシップとは全く異質のリーダーシップが求められていることを知る必要があります。 それは愛と謙遜と限りない忍耐というリーダーシップです。弟子訓練が重要であることを分かりつつも、この働きを実際に行なうには、かなりの勇気と犠牲を覚悟しなければならないのです。自分自身がいつも問われるという精神的負担を乗り越えなけれなりません。私がラブリの牧会者として、最も悲しみを覚え、葛藤があるとすれば、この本当の意味でのリーダーシップの欠けのためです。

しかし私は、プラスの中で多くの失敗をしています。失敗しないようにすれば、ボロは出ないかも知れません。すなわち弟子訓練や愛して細かいところまで関わらなければ、私は立派な牧師として尊敬されるかも知れません。しかし、愛して整えようとします。変化を期待します。 その人の価値観を変えようとします。その人の人格に触れます。このようなことをしなければ失敗も少ないのです。しかし、私はそのような牧会哲学を持っていません。他の11人の弟子たちよりは、たとえイエスさまを否定してしまったとしても一人だけ後に着いて行ったペテロのようにイエスさまを愛したいのです。結局ペテロは大きく用いられました。
失敗や欠けや弱さは必ず矯正されます。変えられるのです。マイナスを作らないようなキリスト者ではなく、プラスの中でマイナスを作るキリスト者です。もちろん、マイナスがないに越したことはありませんが・・・。 バナナシュートを蹴りたいと思ったら、失敗の中に入って行かなければなりません。それはバナナシュートという積極的なチームに貢献するシュートを自分のものにするための失敗なのです。愛するという教会のすばらしい徳を自分のものとするためにも失敗の連続です。 しかし、その失敗が完成に至らせるのです。やっかいな問題は誰にでもバナナシュートを蹴ることが出来、チームに貢献出来るのに、それを蹴りたいとは思わないこと、自分には無理だと考えていること、少しやってみてダメだとすぐにやめてしまうこと、他の人にゆずることの方がいいと思うことなどです。私は、ラブリの兄弟姉妹とこの日本に召されたクリスチャンとしての召しを共有し、光として影響を与えるという積極的な教会形成をしたいと思っています。誰にでも愛する力が与えられています。失敗をしないことよりも愛することの方が断然大切なのです。神が愛する兄弟姉妹に与えておられる無限の可能性をぜひ自覚し、私と一緒に失敗する与え手になって欲しいのです。神が愛する兄弟姉妹に与えておられる無限の可能性をぜひ自覚し、私と一緒に失敗する与え手になって欲しいのです。
牧会哲学とは、その牧する教会とは何かという問題から当然の帰結として引き出されるものです。それゆえに、教会形成哲学と言ってもいいでしょう。
マタイの福音書22章36ー40節で、一番大切な戒めとして、神を愛し、自分を愛し、隣人を愛することであると言いました。教会とはまさに、この神の命令に従い、愛を具体的に表わしていく共同体でなければならないのです。イエス・キリストが愛に生きられたように、キリストのからだである教会も愛に生きるべき共同体なのです。それゆえに、教会を神を愛する共同体、自分を愛する共同体、隣人を愛する共同体としてみることが出来るのです。
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