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『1.神を愛する共同体』

教会は、神を愛する人達の集まりです。しかし、実際には、救われたばかりの人達を中心として、神に愛されるということは分かっても神を愛するという自覚を持つにいたるには時間がかかります。しかも自然に神を愛するようになるのではありません。そこには神の子どもとしての成長が必要なのです。そのためにはみことばによる養育がどうしても必要です。みことばこそクリスチャンの成長に欠くことが出来ない栄養素だからです(マタイ4:4、Tペテロ2:2)。私の牧会哲学の基本は、1人1人をみことばによって育て、みことばに堅く立たせるということです。

さて、神を愛するとは具体的にどのようなことでしょうか。 第一にそれは、神が自分にしてくださったことのすべての良いことに関して感謝を表わすということです。それは、神が自分にしてくださっていることをちゃんと受け取っていますという告白でもあります。神が私たち人間にしてくださっていることは、キリストの十字架の犠牲にみられるように、私たちの想像を超えた愛で満ちています。神を愛するとは、神がしてくださったことを無にせず(ガラテヤ2:21)、しっかり受け取ることです。しっかり受け取ったという証拠は感謝です。子どもにバースデイプレゼントをあげたのに、感謝が返ってこなかったら父親はどう感じるでしょうか。子どもからの愛を感じるでしょうか。世と教会の違いは、この感謝の違いでもあります。世は全く神に感謝しません。ひどいことには別のものに感謝するのです。たくさんの恩恵はまことの神から来るものなのに、多くの人々はこの方に感謝することを忘れました。それゆえ、教会は、この世のものでない証拠を感謝という神への愛の表現を通して表わす共同体なのです。御言葉を通して、イエス・キリ
ストの十字架の意味を確認し、基本的にこの救いの業だけでも、感謝を表わし切れない恵みであることを確認する必要があります。しかし、自分 の罪がどんなに大きく、地獄に値するものであるかが分からないと、救いの恵みも良く分からないのです。この罪の本質的な理解のために書かれたのが『真理はあなたを自由にする!』です。このテキストを入門コースで学び、救われたことがどれほど驚くべき恵みであるかを再度基礎コースで確認します。神への感謝はクリスチャン生活を長く続けた人が恵みに慣れることに

このような人は、兄弟姉妹のマイナス面や、事柄のマイナス面ばかりに目がいくようになり、否定的な態度を表わすようになるのです。また、積極的な教会形成から身を引くという形で現われてきます。もし、神の恵みがその人を覆い、感謝にあふれているなら、どんなマイナス要素があったとしても神を疑うようなことはしません。兄弟姉妹を愛することは、神を愛することだからです(1ヨハネ2:8−11、4:18−20)。それゆえ、牧会の方向性として、彼らを基本的な神の恵みへと目を向けること、彼らの心から感謝があふれるように助けることです。

第二に、神を愛するとは神に服従することです(1ハネ5:3、ヨハネ14:15、2ヨハネ6)。教会は神への服従共同体でなければなりません。イエスさまは、「誰でも私について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私について来なさい。」と語られました(マルコ8:34)。そして、「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしい者ではありません。私よりも息子や娘を愛する者は、私にふさわしい者ではありません。十字架を負って私について来ない者は、私にふさわしい者ではありません。」(マタイ10:37、38)と語られるのです。まさに神を愛するとは、神に自分を捨てて従うことであり、これが弟子の道なのです。そうでなければ、ふさわしくないとイエス様が語られているのですから、教会はまさに、「すべてを捨てて神に従う弟子の共同体」であるということが出来ます。しかし、服従が先行するのではありません。神を愛することが先行するのです。だから、その命令が重荷とはならないのです(Tヨハネ5:3)。神を愛していることが、服従によって表現され、証明されるのです。神を愛していることが感謝によって証明されることと全く同じです。弟子訓練とは、まさにクリスチャン一人一人を神への服従者として訓練し、造り上げることを言い ます。入門コースにおいては、ただ単にキリストとの出会いを導くのではなく、自分中心の生き方から神中心の生き方へ、つまり神への服従の生き方への悔い改めに導くというのが弟子訓練における入門の導きなのです。それも頭だけの転換ではなく、知識と感情と意志の三つの人格的要素がみな方向転換されることを確認していく必要があるのです。次に基礎コースにおいては、神の救いの驚くべき恵みに学習者とともに感動を共有しながら、神中心の生活、すなわち神に服従して生きるということがどのような生活であるかということを一つ一つ確認します。そして教会が宣教と神の栄光を表す(エペソ3:20
)という使命に服従し、全うするように建てられているキリストのからだであり、それは個人の働きではないということを明確にしておくことが大切なことです。 すなわち、弟子コースに入ってから神への服従訓練が始まるのではなく、入門コースからすでに神への服従訓練が始まるのです。それは導くキリストの弟子がそのような価値観で満ちているから出来ることなのです。これが弟子訓練の大きな特徴であると言えます。

基礎コースを終えた人はアパルームにおいて生涯、聖書勉強をします。クリスチャンが聖書を学ぶことは当たり前のことです。アパル−ムのリ−ダ−である小牧者は常に彼らの変化のために祈ります。自己中心が消え、自我がキリストの十字架にはりつけにされ、キリストの愛のうちに溶かされることをいつも願うのです。そして、彼らがみことばによって考え、御霊によって感じ、御霊に導かれて意志するようになることを祈って、祈って祈りまくり、彼らを教えるのです。このアパルームこそ、弟子訓練教会の土台です。従って、弟子コースおよび小牧者コースは、そのアパルームにおいて模範になる人(リーダー:小牧者)を育てる訓練です。弟子コースは単に用意されたプログラムを消化することが目的ではありません。その人が、御言葉を土台とした生活習慣をきちんと身に付け、御言葉を土台とした愛と仕える人格を持って伝道することが出来るようになる人を目指すのです。
愛とは、その人のイメージで判断するものではなく、御言葉や御言葉に描かれている神ご自身の姿、イエス・キリストの姿に学ぶことです。仕えるということについても同じです。そして、キリストの弟子になるということは、キリストに似た者になるという意味であって、「私は性格がこうだから…」とか「賜物が違うから…」という言い訳は通用しません。
イエス・キリストの命令は絶対的な命令です。そこにどんな言い訳も入り込む余地がないのです。しかし、願望がないところに弟子訓練は成立しません。弟子訓練は弟子として訓練しようとする者と、弟子となりたいという願望を持つ者との御霊の一致によってすばらしい実を結ぶ業なのです。特に小牧者コースは、アパルームを導くリーダーを養成することを中心とした訓練です。キリストの弟子としての人格を身に付けた者が、その人格(愛と仕える心)と御言葉と祈りによって、委ねられた未信者と信徒を絶えざる神への服従へと導いていく働き手を育てるのです。これはまさに小さな牧師を育てる訓練です。

第三に、神を愛するとは神と共にいることです。愛する人と共にいたいと思うのは当たり前です。神は人間を愛するあまり、人間の世界に来られ、インマヌエルとなってくださいました。また、服従との関連で言えば、「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします」(ヨハネ14:21)、「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」(ヨハネ14:24)とイエス・キリストは語られるのです。
また、神はミカを通して、「人よ。何が良いことなのか。主はあなたに何を求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか」(ミカ6:8)と語られるのです。
教会は、神を愛して、神と共に歩む共同体として建てられているのです。そして、神を愛する共同体は、いつも神と交わることを望んでいるのです。神との交わりは具体的には、公的な礼拝、私的な礼拝(ディボーション)、賛美、祈り、黙想などによって行なわれ、内的には、神を畏れる霊的感覚、どんなときにも神に頼る霊的感覚、すぐに神に聞こうとする霊的感覚を伴っています。
霊的感覚の訓練、神との交わりの訓練は御言葉なしに考えることは出来ません。わたしがディボーションをどうしても弟子訓練の土台にしたいと思っているのはそのためです。一日を神の声を聞くことから始めます。このことを神はどんなに喜んでくださることでしょうか。神と共に歩むということは、常に神に聞きながら、神の心を大切にしながら歩むということです。そのための方法として、このディボーション以外に考えることは出来ません。しかし、ディボーションに は一つの危険性があります。それは聖書理解が独善的になってしまうという危険性です。そのために、アパルームによる帰納的聖書勉強や分かち合いによってバランスを保っていく必要があるのです。次に神と共にいることは、神との祈りによる交わりによって展開されます。神を愛する教会は祈る教会です。それは、神を全能だと認めることであり、神を助けてくださる方として認めることであり、神を導き、教えてくださる方として認めることであり、神に頼り、神を信頼している心の表現です。
個人の祈りはもちろんのこと、公的な早天祈祷、合心祈祷を奨励し、各アパルームでも祈りの時間をしっかり確保するようにしています。祈りのチームを作り、訓練生には特に祈りの訓練を施しています。これらはみな、神を愛する教会として、神と共にいることを喜び、神との交わりから来る恵みの大きさにいつも心捉えられる教会となることを願っているからです。
また、神との交わりにおいて大切なものは賛美です。賛美の中に主は住まわれるからです。だから、大人も子どもも喜んで歌える賛美を日々研究しています。御霊があふれる賛美、まさに主を主として褒め称える賛美がますます充実するように、また新しい歌をささげられるように努めているのです。
このように教会とは、神を愛する共同体です。教会以外に神を愛する人々はこの世に存在しません。 また、教会に所属しないクリスチャンも存在しません。教会こそ、キリストのからだであると呼ばれているからです(Tコリント12:27)。キリストと一つになった者は、キリストのからだとも一つになるのです。私たちは、それゆえに、教会として一つになり、神を愛するように召された者たちなのです。
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