2.教会自身を愛する共同体



  律法の中で一番大切な戒めは、神を愛することと自分と同じように隣人を愛することでした。これを教会に当てはめるなら教会は常に教会自身を愛するいう命令に意志を働かせる必要があります。

 第一に教会自身を愛するとは、御言葉によって教会を生かすということです。教会のいのちは御言葉にあります。御言葉によってクリスチャン一人一人、つまり教会の各器官は成長するのです(マタイ4:4、1ペテロ2:2)。どんなに一時的に栄えても御言葉がないなら教会の衰退は目に見えています。どんなに満たされているように思えても、御言葉の土台がないなら、すぐに飢え渇きます。だから、教会は互いに御言葉の勉強に励むことが必要です。これは教会自身を愛する自覚から生じるものです。教会がどれだけ神の栄光を表わすことができるかは、どれだけ御言葉を受容しているかにかかっています。だから、教会の体質は絶えず、御言葉は何と言っているか、御言葉に依存しようという体質にならなければなりません(使徒17:11)。兄弟姉妹がこう言っているとか、自分がこう感じているとか、そういうものに同調してはいけないのです。100人が同じことを感じ、100人が同じ意見であっても御言葉は何を言っているかによって初めて判断するという態度が教会のとるべき態度です。それは御言葉が教会を導く力であり、教会を繁栄させる力であると信じているからです(詩篇1:2、3)。



 重ねて強調しますが、毎日のディボーションと毎週の帰納的聖書勉強を牧会のベースにしているのはこのためです。御言葉が本当に心にしっかり入るなら、必ずその御言葉が霊的成長を導き、御言葉が生きて働く霊となります。御言葉は、教えと戒めと矯正と義の訓練に導きます(2テモテ3:16)。そして、大切なことはその御言葉を信じるように互いに励まし合い、助け合うことです(ヘブル4:2)。そのためにアパルームがあります。

 アパルームは単なる交わりになってはいけません。そこでは、御言葉の分かち合い、聖書の勉強がしっかりとメンバーのものになり、御言葉による喜びとか御言葉による励ましとか、御言葉による興奮が起こってこなければなりません。そういう場です。御言葉によって確実に成長し、御言葉によって確実な変化が起こって来なければならないのです。あるときには、御言葉が入ることによって悔い改めが起こる。あるときには御言葉が入ることによって賛美があふれてくる。あるときには御言葉が入ることによって伝道が始まるというようなことが起こってくる必要があるのです。小牧者は、そのようなことが起こることを期待して、アパルームを開かなければなりません。そのようなことが起こることを祈ってアパルームに備えなければなりません。

 JーVIC(ラブリの教会学校の名称)では、御言葉の暗唱と月間の御言葉が本当の意味で子どもたちに入るように、4回に渡って一つの御言葉からメッセージをしています。小学生は、これを6年間行なって来て、彼らは72の御言葉を暗唱しているか、それをかなりの濃度で聞いています。御言葉によって生まれた教会は、自分自身でも自覚して、御言葉を絶えず求め続ける体質を持つ必要があります。 初代教会から始まっている深刻な問題は、絶えず教会が異端に悩まされるということでした。悪しき霊が絶えず、御言葉を歪曲し、間違った教えを教会に侵入させるのです。





だからパウロはいつも諸教会に間違った教えに注意するよう呼びかけました。また、イエスさまがサタンの攻撃にさらされた時、御言葉でサタンを退けました(マタイ4:1−11)。パウロは、サタンとの戦いにおいて武装することを勧めましたが、唯一の武器は御霊が与える御言葉の剣だと言いました(エペソ6:17)。ですから、教会を愛する人々はいつも御言葉に注意を向け、教会を愛する牧師は、最も御言葉を愛し、労苦しながら御言葉を兄弟姉妹に教えるのです。

 第二に、教会が教会自身を愛するとは、御言葉をベースにお互いに愛し合うことです。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)。イエスさまは兄弟愛の建設を望まれました。使徒ペテロも「あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、憐れみ深く、謙遜でありなさい」(Tペテロ3:8)、「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。」(Tペテロ4:8)と勧めています。使徒ヨハネもまた、「兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまづくことがありません」(Tヨハネ2:9)、「私たちは自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。」(Tヨハネ3:14)、「神を愛するといいながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。」(Tヨハネ4:20、21)と語っています。このように教会は愛の責任と実行を委ねられた兄弟姉妹の集まりなのです。プロテスタントが明らかにしてきた教会の二つの特徴は、御言葉を解くことと、聖礼典を執行することでしたが、教会は第一に愛し合うというところに建設される共同体だということをしっかり自覚しなければなりません。

 しかし、この愛するということのイメージが大切です。多くの人は愛するということについての漠然とした自分なりの理想を持っています。多くの場合、それは自分が受けて気持ちのいいものです。しかし、愛するとは何をすることなのかという点でも御言葉がそのベースになければなりません。自分が愛することだと思ったことが愛することではなく、聖書が言っている内容が愛することだからです。
 それゆえに御言葉を学ぶということは、愛することの内容を学ぶことであり、愛することの実践こそ、愛し合う教会の訓練なのです。泳ぐことが泳ぐことの訓練であるのと同じです。

   第三に、教会が教会自身を愛するとは、御言葉をベースにして仕え合うということです。イエスさまは弟子たちの足を洗い、私たちの模範を示したのだと言われました(ヨハネ13:4ー15)。弟子たちは互いに足を洗い合うべき存在です。これは教会にもそのまま当てはまります。教会は互いに仕え合う共同体です。教会は「キリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」(Tコリント12:27)。各器官はお互いの助けと支えが必要です。各器官は積極的に別の器官のサポートをします。親指は親指のために存在するのではなく、他の指と協力しながら、口や他のからだの部分に仕えます。それは当たり前であり、何も誇らしいことではありません。それが教会にとって当たり前であり、「してやっている」とか「こんなにしているのに」というような感情を持つものではないのです。他の器官に仕えることが喜びであり、それが生きている意味なのです。そして、からだ全体を通して福音伝道の働きができることを各器官は喜ぶのです。



  しかし、ここでもどのように仕えるかは聖書に良く学ぶ必要があります。だからどうしても御言葉を良く知るということが教会にとってはいのちなのです。イエスさまがどのように人間に仕えられたのか。しもべとしての仕え方もあれば、王として教えたり、戒めたりする仕え方もある。優しく手を差し伸べる仕え方もあれば、厳しく叱責する仕え方もあります。私たちは仕えるという点でも自分なりの理想ではなく、常にイエスさまの姿に学ぶ必要があるのです



弟子訓練とは、御言葉をベースにして愛することと仕えることの訓練を通して、それを身に付けることに他なりません。これは三位一体の神さまが私たちに成してくださった業を適用する訓練です。聖霊さまがみことばを教えてくださいました。父が私たちを愛し、御子が私たちに仕えてくださいました。それゆえに、この三位一体の神の働きに自分を委ね、聖霊によって御言葉を悟ること、父の愛を十分に感じること、キリストの十字架のみわざに大いに感動することが弟子としての資質を造り出すということが分かります。
 ですから指導者はそこへと訓練生を導くように彼らの訓練の助けるのです。弟子訓練において、単に義務感から聖書を読んだり、暗唱聖句をしたり、課題を消化してもそれは本当の訓練とは言えません。

  神の愛を充分に感じること、キリストの十字架の御業を中心に、キリストが成してくださったその御業に大きな感動が内的に起こって来なければなりません。それは霊的な事柄ですから、良く祈る必要があります。指導者は特にこのために良く祈らなければ、どんなに形が整っても必ず崩れるときが来ると思 わなければなりません。また訓練生も良く祈らなければ、良い実を結ぶ良い弟子になることはできないと考えなければなりません。

 良い弟子とは、御言葉に基づいて物事を考えられる人。聖書的に愛し、聖書的に仕えている人なのです。どんな教材を使うかとか、どれぐらいの長い期間弟子訓練をするかというようなことではなく、どれだけ御言葉が自分のものとなっているか、どれだけ愛の人、仕える人になっているかが弟子訓練の勝負どころです。そして、この弟子訓練の三位一体こそが、派遣された教会、つまり福音を伝えるというこの世に対する責任を全うする土台となるのです。




 

 

 

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