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3.この世を愛する共同体

教会は、隣人を愛せよという命令の遂行共同体でもあります。ところがノンクリスチャンは、よくクリスチャンを見て、それでもクリスチャンかと思うことがあるようです。それはサタンのささやきです。隣人愛というとても尊い原理にさえ、サタンは入り込み、教会を惑わすのです。ですから、教会がこの世を愛するとはどういうことであるのかを明確にしておきましょう。
まず第一に、教会がこの世を愛するとは、福音を伝えるということです。これは愛の最高峰だということを覚えてください。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)と、ヨハネは神の愛がどんなにすごいかを語りましたが、神が世を愛している証拠をひとり子を犠牲にしたほどだとというのです。それが神の世を愛する最高の表わし方でした。天候のバランスを取ったり、たくさんの自然を用意したり、豊富な食べ物を用意してくれたりすることも神の愛ですが、最高の愛の表現は、ひとり子を十字架につけることでした。だから教会も、世の人達に親切にするとか、食べ物を持って行くとか、相手を理解してあげるということも愛の表現ですが、キリストを伝えることが何よりの愛の最高の表現なのです。もちろんキリストが反対にあったように、私たちも反対を覚悟する必要があります。ねたまれたり、自分の仲間からも裏切られることがあるでしょう。苦しくつらい道を行くこともあるでしょう。しかし、教会はそのために召されたのです。「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました」(Tペテロ2:21)と、ある通りです。

教会とは、世を愛し、彼らに永遠のいのちを与えるための福音伝道のために苦しみを味わうように定まっている共同体なのです。神が世を愛しているために御子を犠牲にするという苦痛を味わうことと同じです。
このように、愛するとは、絶えず代価が要求されることなのです。ですから、教会がいつも楽しいところ、いつも慰めを与えられる場、いつも優しさに満ちているべきところ、ラクチンラクチンという雰囲気を持っているとしたら、それこそ大きな誤解だというべきです。イエスさまの生涯、使徒たちの生涯はそんなに楽しいものではありませんでした。むしろ迫害の連続、誤解の連続でした。「彼 らが笑った」とはどこにも書いていませんし、「彼らが楽しんだ」ということも書いていません。しかし、福音宣教への召しと情熱の姿に、彼らの中に脈々と流れている霊的喜び、平安、感謝、希望というものを私たちは感じることができるのです。教会は彼らの土台の上に建てられているのです。「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」(エペソ2:20)。 教会は使徒性を帯びている共同体であり、絶えずイエス・キリストと使徒の足跡に従うべきなのです。このことからも、福音宣教が教会に与えられたこの世への愛と使命であることは明らかです。
教会はこの使命を果たすために福音を自由に、誰に対してでも語れるようになる必要があります。そのために小牧者コースにおいて、入門コースの指導法、基礎養育の指導法を訓練するのです。しかし、ここまでの道のりにはイエスさまご自身でさえ3年半の時間をかけて弟子たちを訓練したのですから、相当の時間がかかってもやむを得ないと思わなければなりません。

牧師は、この小牧者を育て、またその小牧者の中から指導者が誕生することを願って弟子訓練に励むのです。弟子は未信者に福音を伝え、彼らをキリストへと導く案内人であり、小牧者は、人々を救いに導き、育てる彼らの牧会者であり、牧師は小牧者の牧会者です。この図式が内容的にも、機能的にも明確に教会の中に浸透し始めるなら、教会は確実に成長していきます。
私は日本の弟子訓練教会のモデルをラブリに実現したいと思っています。失敗しても失敗してもこの作業をやめるわけにはいきません。それは、聖書の原理であるからです。常に壁が目の前にありますが、エリコの城壁はその壁の周りをグルグルと回ることによって崩れ落ちました。私も弟子訓練という壁の回りをグルグルと回り続けます。きっといつか壁が崩れ落ちると信じています。この牧師に与えられたビジョンをラブリの兄弟姉妹にも共有して欲しいのです。「なかなか実を結ばないじゃないか」「いったいこんなに苦労して、何になるのか」「もっと自由にやれないのか」……いろいろな疑いや、不満が出てくるかも知れませんが、「聖書の教えに従っているのだから、きっと実を結ぶはずだ。きっと、日本の福音化のために仕えることができる。」と信じて祈って欲しいのです。
弟子訓練が、日本の失われた多くの魂を愛するための働きであり、一人でも多くの人を救いに導くための働きであることをどうか覚えてください。必ず勝利するときが来ます。私は信じて疑いません。

第二に、教会がこの世を愛するとはこの世を支配するサタンと戦うことです。
世を愛するために世に迎合する教会があります。福音が土着化するためには、その土地の文化に合わせる必要があると考える教会があります。そのために、仏壇を拝むことを許容したり未信者との結婚を積極的に奨励することがあります。しかし、それは福音の土着ではなく、福音の歪曲です。それこそサタンの罠であり、福音が歪められてしまったのでは、せっかく救いに至らしめるものがその効力を無くしてしまうことになり、世の人々を救えないのです。ですから、私たちは少しでも福音を軽視することはできません。それを曲げることはできないのです。
また、福音のレベルを低くすることもできません。私たちは使徒継承の教会として、使徒たちの教えをしっかりと守るように勧められているのです(マタイ28:19、20)。福音をきちんと受け取った教会は、その神の恵みへの応答として、まず「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)と、パウロは献身を勧めます。そして次に、「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)と、この世の流れに従わず、しっかりと御心に従った歩みをするように勧めています。
また、パウロは、エペソ人への手紙の中で、「私たちの格闘は、血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(6:12)と語り、神のすべての武具を身に着けることと御言葉の剣を持つように勧めています(6:13ー17)。

教会がこの世を愛するとは、世の人々をサタンの手から奪回することです。この世を支配しているサタンの領土を神の領土へと征服することです。これが教会に与えられた使命と権威なのです(マルコ3:14)。「神の国とその義とをまず第一に求めよ。」とは、教会がまず持つべき態度です(マタイ6:33)。それは神がどれだけこの世を愛して、彼らを神の国へと導きたいかという気持ちの表現であり、教会がその気持ちを一緒に持つ者となって欲しいとのイエスさまの気持ちを表わしていることばです。
教会は何を求めるべきでしょうか!一人でも多くの人がサタンの手から解放されて神の国に入ることです。
そのためには、教会がこの世に妥協することはできません。むしろ、この世をコントロールしているサタンの価値観と戦い、みことばとキリストの御名の権威によって悪しき霊どもを追い出す、絶えざる戦いの中に入っていく必要があるのです。

このような激しい戦いをすべき共同体が教会だということを知ってください。その戦いのためには、どれだけの訓練が必要なことでしょうか。それでも弟子訓練は必要ではないと言うなら、その人はさっぱり主のお気持ちが分からない人だと言わなければなりません
戦争に出ていく前に、兵士たちはどれだけの訓練をすることでしょうか。
ですから、最初は救われたことの喜びと慰めに浸っていた信徒も、御言葉をきちんと読むならば、イエスさまが語っている深刻な事態を見逃すことはないでしょう。まだ多くの人達
がサタンの捕虜になっているという事実です。この事実を本当に見つめたら、いつまでも愛されたいとか慰めを求めるクリスチャンではなく、何とかして彼らを助けたい!自分が救われたのだから、彼らを助ける者になって戦いに参加したい!と思うでしょう。それが
正常です。そこを本当に見つめるならば、多少の訓練の厳しさは気になりません。
また、神の者がサタンの手に奪われているということもまた屈辱的です。神を愛する者が神の栄光を何とか表わしたいと思うことも正常です。そのような霊的な戦いに目を留めているなら、私たちにとって、人格とか、能力とか、他の人の態度とか、この世でどのように暮らすかとか、どれだけのお金があるかとか、誰がどう言ったとか、誰が何をしたとか、そんなことはあまり大したことのない事柄になるのです。
それよりも大きな関心は、もっと強
い弟子になりたい!もっと御言葉を知り、サタンを退けたい!もっとこの世の多くの人を救える弟子になりたい。そのために自分は変わりたい!そのためにだったら、苦しいことでもつらいところでも通って行きたい!「主よ。どうか私を砕き、私を聖霊の器にして、この一事 に励むあなたのしもべとしてください!」と祈り続けるでしょう。そして、弟子訓練を喜び、弟子訓練を愛し、訓練されることに深い感謝が絶えないことでしょう。たとえ、指導者が下手であっても、たとえ人格的に欠けがあったとしても、たとえ訓練に不足があったとしても、一生懸命訓練してくれる姿に共感し、感動し、協力し、共に涙を流すことができるでしょう。そして、そのような姿勢さえあれば、主が喜んでくださり、必ず勝利に導いてくださると信じることができるでしょう。
おお!愛する兄弟姉妹!どうか、私と共に弟子訓練に狂い、いのちある限り、失われている魂の奪回に仕えようではありませんか。


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